文章が上手い人は本を読んでいる
これまで多くの人を見てきてわかったことがあります。
それはある水準以上の文章を書ける人は、
例外なく本を読む習慣があるということです。
本を大量に読み込んできた結果、
自分としてのオリジナルの文章が
紡ぎ出されるのです。
イメージとしては、
コップに大量の水を注ぎ続けた結果、
それまでの蓄積があふれ溢れることで
顕在化してくるということです。
逆に言えば、それなりの量を読み込まない限り、
独自の考えを形成することはできないし、
オリジナルの文章も紡ぎ出すことは
決してできないということです。
もちろん稀に天才的な人がいて、
天性の資質だけで独自の文章を構築してしまえる
笑っちゃうほどの天才が存在することは否定しません。
しかし、そんな天才でも無尽蔵にアイディアを
生み出し続けることは不可能です。
一定時間創作を続けていくと、
やがてアイディアの井戸が枯渇する時がやってきます。
これまで幾多の天才芸術家たちが、
道半ばで自らの命を絶ってしまった背景には、
そうした事情があるのかもしれません。
息の長い作家たちは皆そのことを知っていて、
1日のうち数時間を読書に充てたり、
年間の半分を勉強期間に充てたりして、
膨大なインプットの蓄積を行っています。
この事実が、文章上達の秘訣を何よりも
雄弁に物語っていると言えるのではないでしょうか。
本を大量に読んでいくと、
自ずと気づかされることがあります。
それは文章にもリズムがあるということです。
小学生の頃、芥川龍之介の「羅生門」や「地獄変」
「蜘蛛の糸」などの作品を読んでいて、
「なんて美しい文章だろう」と感動したのを覚えています。
文章にはリズムがあると明確に意識し始めたのが、
ちょうどその頃でした。
その意味で、文章と音楽には類似性があると
感じています。
これは裏技的なテクニックですが、
文章を書く時にどのようなBGMを流すかで、
その文章の色が変わると思っています。
たとえば、村上春樹は執筆時にジャズを聴いていることで
知られていますが、彼の文章の世界観にジャズが
少なからず影響を与えているように思います。
このテクニックを逆手に取れば、
文章にどのような色をつけたいかを考えて、
それに相応しいBGMをセレクトするという方法も
考えられます。
無意識的に、聴きたい音楽を流しながら文章を書くのではなく、
文章の世界観に応じてどのようなリズムを盛り込みたいかを
考えてみてはいかがでしょうか。
また、大量の文章を読みこんでいくと、
明確に下手な文章がわかるようになります。
下手な文章はただの言葉の列挙、
文字の羅列になっているばかりで、
リズムはおろか世界観など皆無です。
たとえば、生徒の書いた作文などを読んでいると、
それなりに文章を読んできた人とそうでない生徒では、
紡ぎ出される文章の質が明らかに違います。
ただ文字が書き付けてある紙切れと、
整然と考えが述べられた文章とでは、
そこから伝わってくる波動そのものが違っているのです。
よく「言葉には言霊がある」と言われますが、
きちんとした書き手が紡いだ文章には
当然「言霊」が宿っています。
文章に言霊が宿っているからこそ、
一流作家の作品が読み手の心を揺さぶり、
魂を突き動かすような深い感動を与えるのです。
お気に入りの作家の文章を写してみる
文章修行として有名なのが、
お気に入りの作家の文章を視写することです。
私も若い頃、何人かの作家の文章を写す修行を
していたことがあります。
生徒たちにも課題として
名文の視写をさせていたことがあります。
これが一部の生徒・保護者からはいたく不評だったらしく、
管理職からもご指導を受けたことがありますが、
それでも頑として信念を曲げずにやり通したのは、
若き日の良き思い出です。
名文の視写という、一見何の役にも立ちそうもない
行為の価値を理解するには、ある程度の知性とセンスが必要です。
教養の価値を理解する知性とセンスです。
世の中の大半の人は、「教養って何?」「それって美味しいの?」
というレベルだと思うので、公立学校の課題としては
不適切であったかもしれません。
しかし、このブログを読み通すほどの
知的レベルの持ち主であるあなたなら、
この意義をご理解いただけると信じています。
お気に入りの作家の文章の視写をしていると、
その作品の魅力を深いレベルで味わえます。
句読点の打ち方、改行の仕方には
その作家の息遣いが現れます。
作家が作品に言霊を籠めるためにどんな工夫をしているのか、
その舞台裏を洞察することができるのです。
そのようにして文章を深く味わう作業を続けていると、
文章とは決して無機質な言葉の連続ではないことに
気付かされます。
有機的な言葉の連なりが生命をもっていることが、
明瞭に感じられるようになります。
これこそが文章に籠められた「言霊」です。
その意味で、文章はその人の写し鏡であると言えます。
よく「文字はその人を表す」と言われますが、
私は「文章こそがその人自身である」と思います。
そう考えると、人前に文章を晒すのは勇気のいる行為です。
なぜなら、文章を書くのは自分の頭の中身を
曝け出すことに他ならないからです。
だからこそ、書き手は日々自分のコンディションを整え、
自らの人間性を高めていく努力が不可欠なのです。
それは、日々試合に臨むアスリートが、
自分の心身を常にベストに保ち続ける姿勢に
共通するものがあります。
そこまでしてでも書きたいと思う人だけが、
文章を書けばいいのです。
読むことと書くこととは別の競技
先ほどから読むことの重要性を繰り返しお伝えしてきましたが、
読んだからと言って書けるようになるとは限りません。
なぜなら、読むことと書くことは別の競技だからです。
読書家だからといって、
皆が皆文章を書けるわけではないのです。
文章もまずは量を書くことです。
量をこなして、
初めて文章から力みが取れてきます。
そこまでいってから、
本当の意味でオリジナルの文章の構築が始まるのです。
普段文章を書かない人にお勧めしたいのが、
日記を書くことです。
日記は誰にも見せないので、
好きに書き散らすことができます。
そうやって、文章の力みをとるのが
第1ステップです。
しかし、ただ日記を書くだけでは
文章はそこから先には進みません。
第2ステップとして、
ブログなど人の目に触れる文章を書くことをお勧めします。
人の目に晒して、肯定的・否定的なフィードバックをもらいながら、
自分の文章をブラッシュアップしていく中で、
オリジナルの文章が磨かれ、世界観が構築されていくのです。
そのようにして、文章が磨かれるのに比例して、
あなたの所作や発する言葉が知らず知らずのうちに
洗練されていきます。
確かに文章を磨くという行為は、
ひたすら机の前でキーボードを打ち続ける
地味な作業の連続に過ぎないかもしれません。
しかし、文章を磨くことを通して、
人間性、思考力が鍛えられることだけは
自信を持って断言します。
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