漫然と生きるな
先日、哲学作家である飲茶さんの
「体験の哲学」という著作を読んで、
大変感銘を受けました。
本の帯には格闘技漫画「刃牙」の中のセリフをもじって、
「漫然と生きるなッッ」「思考を覚醒させろ」
という太文字が踊っています。
そもそも漫画「刃牙」を読んだことのない私には、
それがいったい何を表すのか、皆目見当がつきませんでした。
漫画には父親である藩馬勇次郎と息子の刃牙の、
次のようなシーンが描かれているそうです。
父:(会釈しながら)「いただきます」
息子:(心の中で)「いったい何に頭を下げたのだ!?
何に対して感謝をしているのだろうか。
いや、まずそもそも何に対して感謝を示すべきなのだろうか。
それは食材となった生き物か?それともその食材を作った人か?
それとも料理した人か?もしくは、それらすべてか?」
父:「なっちゃいない。漫然と口に物を運ぶな。
何を前にしー何を食べているのかを意識しろ。
それが命喰らうものに課せられた責任ー義務と知れ。」
最後の父親のセリフにハッとさせられた読者が多かったらしく、
このセリフの切り抜きがネットに溢れかえり、
作中でも屈指の有名なシーンになっているそうです。
著者はこのセリフをもじって、
「なっちゃいない。漫然と日常を生きるな。
何を前にし、何をしているのかを意識しろ」
と私たち読者に語りかけているのです。
生きるとは体験すること
著者は経験主義の哲学者ヒュームの「人生とは体験の束である」
という言葉をもじって、「人生とは体験の束である」と主張します。
このことから「体験の質を向上させれば、人生の質も向上する」し、
「体験が豊かになれば、人生も豊かになる」と言えます。
逆にこうも言えます。
「もしもあなたが体験も意識せずに
薄ぼんやりとしか味わっていないならば、
あなたの人生もまた薄ぼんやりとしたものとして
過ぎ去っていくだろう」
では、なぜ体験を意識して味わうことが大切なのでしょうか。
次の問いに向き合ってみてください。
「生きているとはどういう状態だろうか?」
この問いに対して、様々な回答が考えられますが、
著者はこう結論づけます。
「生きているとは、あなたが何らかの『体験』をし、
それを感じている(味わっている)状態のことである」
想像してみてください。
生命維持装置をつけられた肉体が、
仮に100歳の齢を数えたとしても、
それが100年の人生を生きることになるとは
言えないはずです。
肉体的にはこの地上に繋ぎ止められていたとしても、
実質は「死んでいる」のと同じことだからです。
つまるところ、生命維持時装置を付けられた完全昏睡状態とは、
擬似的に「体験がなくなった状態」であると言えます。
そう考えると、著者の「体験の質を向上させれば、人生の質も向上する」し、
「体験が豊かになれば、人生も豊かになる」という主張も腑に落ちるはずです。
体験を意識して味わわない人生など、生きるに値しないのです。
脚下照顧
禅の有名な言葉に「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」
というものがあります。
「足の裏の感覚に意識を向けたまま、
普段の生活をして過ごしなさい」
という修行から来ている言葉だそうです。
しかし、この修行はなかなかに難しい。
だからこそ、この「脚下照顧」は
禅の真髄であるとも言われているのです。
禅の逸話に次のようなものがあります。
ある日のこと。弟子は師匠と禅について語り合っていた。
弟子:「師匠、禅の真髄とはどのようなものでしょうか?」
師匠:「おまえは玄関にある看板を見たか?
そこに書かれていることが禅の真髄だ。」
弟子:「看脚下ですね。これは禅の法話で
『夜道でいきなり蝋燭が消えて暗闇になったとき
おまえはどうするか?』と問われた3人の弟子がいて、
『人生において暗闇とは何か』『暗闇で人はどう生きるべきか』
など哲学的に答えた2人の弟子は師匠から殴られ、
ただ一言『看脚下(足元を見ます)』と答えた
弟子だけが許されたーというお話に由来する言葉ですよね。
この法話が意味するところは、もちろんどんな状態に置かれても
『足元』すなわち『自己』を見失わず道を歩めということだと思いますが、
なるほどそれが禅の真髄―」
言い終わる間もなく師匠は弟子に飛びかかり、
憤怒の表情で殴りつける。
師匠:「おまえは何を言っている!わしをからかっているのか!
自己を見失わず道を歩めだと?
禅がそんな浅薄なことを語るためにあの看板を掲げていると思うか?
禅に関わる人間ならおまえも知っているだろう。
あれは『履き物を揃えて脱げ』という意味の看板だぞ!」
弟子:「は、はい、それは承知しております!
どの禅寺でも、履き物を揃えて脱げという意味で
あの看板を置いております!
しかし、でも元の意味はー」
師匠は弟子の言葉に耳を貸さず、さらに殴り続ける。
弟子は混乱していた。禅の真髄である「看脚下」が
文字通りの意味の「履き物を揃えて脱げ」という意味なのだろうか?
師匠はおかしくなってしまったのではないか、と。
師匠:「ならば聞くが、あの看板を見たおまえは、
ちゃんと履き物を揃えたか?」
弟子:「もちろんです!
いつも、きちんと揃えております。」
師匠:「では、どの方角に揃えた?」
弟子:「え?」
師匠:「左右どちらの履き物から揃えた?」
弟子「・・・・」
弟子はハッとした。ああ、そうだ。
玄関をあがるとき、これから会う師匠との会話の内容で
頭がいっぱいであり、ぼんやりとしていた。
だとすれば、自分がやっていたのは
習慣的に漫然と履き物を揃えていただけであり、
心は足元を見ていなかった。
つまり、自分はその瞬間その場に生きていなかったのだ。
師匠:「さあ答えろ!今すぐ答えろ!」
言うが早いか師匠は再び拳を振り上げるーとその瞬間、
弟子は突如として悟る。
この緊急時に自分が何をしなければならないかを。
弟子:「看脚下」
ぼそりとつぶやいた弟子を見て、
師匠はピタリと手を止め破顔一笑する。
師匠:「そうだ。その通りだ。」
かくして弟子は許され、師匠の後継者になった。
未知の体験にトライする
とはいえ、師匠の導きもなしに生きる一般人の私たちが、
「看脚下」を体現するのは、ほぼ不可能に近いのではないでしょうか。
そこで飲茶さんが提案しているのが、
この本の巻末に掲載された膨大な数の「体験リスト」に目を通し、
体験した項目にチェックを入れていくというものです。
たとえば、先日私はとあるハンバーグ屋さんでライスを注文するときに、
ふと「カリフラワーライス」を注文することにしました。
カリフラワーなる野菜の名前は耳にしたことはあったけれども、
実際に食したことはありませんでした。
もちろんネット検索をすれば、カリフラワーという野菜の特徴、
栄養価などについては知ることが可能です。
しかし、それでは単に知識を得ただけで、
本当に知ったことにはならないのです。
私はその晩、カリフラワーライスを食すという「未知の体験」と遭遇し、
その瞬間その場を確かに生きていました。
帰宅後、本のページをそっと開いて、
カリフラワーの項目を消したのは言うまでもありません。
もちろん、限られた人生の中ですべての項目を体験し尽くすのは
不可能です。
その場合は、やらないと決めた項目に×をつければいいのです。
私は残りの人生をこの本の教えに従い、
「体験を十分に味わい尽くしながら生きること」に決めました。
実際に体験もしないうちから、
頭でっかちに批判する生き方だけはしたくないと思います。
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