プロの教師とは

メンタル

子どもの前で笑わない教師

若い頃に、ある先輩教師から
「子どもにナメられないために、
子どもの前では笑うな」
と教えられたことがあります。

当時は、先輩からのありがたい教えとして、
拝聴して受容していましたが、
今思えば何とバカな教えを真に受けたのかと
恥ずかしくなります。

もしかしたら、その先輩は
「子どもに媚びを売るようなヘラヘラ笑いを
してはいけない」
と教えたかったのかもしれません。

しかし、それにしても「子どもの前で笑うな」という教えは、
「害悪」以外の何ものでもありません。

なぜなら、人間的な魅力の正体は笑顔に
他ならないからです。

笑顔を封印するということは、
人間的な魅力を無くすことに等しい行為なのです。

大昔の世の中が無条件に教師をありがたがる時代なら、
無愛想な人でも教師が務まったかもしれません。

でも、今はそんな時代ではないのです。

嫌な教師に対しては、「言うことを聞かない」
「反抗する」「クレームを付ける」
など、
ある意味何でもありの世の中になってしまいました。

私たち教師は、「非常に弱い立場」に立たされた状態で、
学級経営、部活動経営、学年経営に臨まなければ
ならないのです。

その意味で、前述の「子どもにナメられないために、
子どもの前では笑うな」という教えは前時代的であり、
「プロ失格」と言えるのです。

プロの役者は、たとえ親の死に目に会えなかったとしても、
舞台に立ったら極上の笑顔で演技します。

教師にとってのオンステージは、学級に他なりません。

たとえ寝不足だとしても、あるいは夫婦喧嘩をして
イライラを抱えていたとしても、
ひとたび子どもを目の前にしたら、
上機嫌で出迎えるのがプロの教師なのです。

子どもに気に入られようとする教師

では、子ども達に気に入られようと、
サービス精神旺盛に振る舞えばいいのでしょうか。

それも違います。

私たちは芸人ではありません。

指導者としてメシを食っている以上、
目の前の子ども達にナメられたら終わりです。

子ども達に好かれようとして、「席替え自由」という
バカげた方策を取った同僚がかつていました。

当然そのクラスは「無法地帯」になってしまい、
担任教師のことを気のいいオバちゃんくらいにしか
考えていませんでした。

「給料泥棒」とは、こうした人のためにある
言葉だとつくづく思います。

「これからの時代は、子どもに気に入られる
教師でなければ務まらない」
と前述しましたが、
それは子どもと友だちになるという意味ではありません。

教師は子どもと同じ目線に立ってはいけないのです。

常に、子ども達の一段上から物事を見て、
一本筋を通してブレない姿勢を堅持することも
必要です。

いつも笑顔でたくさん褒めてくれる教師のことを、
子どもは好みます。

しかし、いざという時にガツンと厳しく出られない
教師のことは、絶対に信用しません。

子どもがいじめられているときには、
親身になって相談に乗り、
厳しくガツンと叱り飛ばしてこそ、
子どもは「この人に付いていこう」
という気になるのです。

子ども達に気に入られるとは、
単に好かれるという意味ではないのです。

子ども達からの尊敬を勝ち取り、
リーダーとして認めさせるということなのです。

そのためには、授業力を磨くことも
必要かもしれません。

授業が分かりにくい教師は、
いざという時に子どもが反発して
指導が通りにくくなります。

毎時間すごい授業をしようと力む必要はありませんが、
一定の水準を超える授業の質を担保することは必要です。

また、知的で深みのある話をして子ども達を
引き込むためには、普段からたくさん本を読んで
教養を蓄えておくことも必要です。

くだらないテレビ番組に現を抜かしている教師と、
日頃から勉強し続けている教師とでは、
発する言葉が違ってくるのです。

厳しさをウリにする教師

学級を国と考えたとき、教師には治安を守る
警察としての働きも要求されます。

たとえば、授業妨害をするヤンチャを叱り飛ばしたり、
いじめられている生徒を助けたりできるか、
子ども達は教師を観察しています。

子ども達が学級で求めているのは、
「平和でつつがなく生活できること」です。

教師にとって、厳しさは子ども達から
信頼を勝ち取るためのカードの1つなのです。

では、厳しさというカード1枚だけで、
教職を乗り切ることは可能なのでしょうか。

そう単純にはいかないところが、
教師という仕事の難しいところなのです。

今の子どもは、厳しいだけの教師からは
そっぽを向いてしまいます。

子ども達はある意味欲張りです。

最低限の安全が学級で満たされたら、
次は「楽しさ」を要求します。

厳しさに加えて、面白さがなければ
子ども達の支持を勝ち取ることは難しいのです。

とはいえ、1人の人格で「厳しさ」「楽しさ」
使い分けるのは、
言うほど簡単なことではありません。

先ほど、「分かりやすい授業ができる教師を
子どもは求めている」
と書きましたが、同時に「楽しさ」「面白さ」
求められているのです。

ただ真面目なだけでもダメ。

かといって面白いだけでもダメ。

「真面目かつ面白い」という、
ハイパフォーマンスをこれからの教師は
求められているのです。

よく教師は「父性」「母性」「子ども性」
持ち合わせなければならない、などと言われます。

これがどれほど高度な芸当か、
教壇に立ったことがある方なら
容易に理解できるはずです。

でも、それを時代が求めているのです。

正直言って教師という仕事は、
その辺のオジさんやオバさんにできる
仕事ではありません。

それなりの資質をもった人が、
志を高く持ち自分を磨き続けることで
プロ教師になっていくのです。

先生方には、ご自身の仕事の意義とやり甲斐について、
今一度誇りをもってほしいと強く願います。

遊ばない教師

教師になるような人たちは、子どもの頃から
親や先生の言うことを素直に聞いてきた
真面目な人が多いと思います。

そのこと自体は素晴らしいことですが、
前述したとおり教師は「真面目」一辺倒で
務まる仕事ではありません。

そこで私が提唱するのは、
「不真面目のススメ」です。

不真面目といっても、何も違法行為に手を染めろ
と言うわけではありません。

そうではなく、「適度に遊ぶことも大事」
言っているのです。

旅行に行ったり、美味しいものを食べに行ったり、
映画を観たり、飲みに行ったり、
お姉ちゃんのいるお店に遊びに行ったりなど、
何でもいいのです。

そうやって自分の「器」を広げていくと、
他者とのささいな違いを許せるように
なってきます。

その心のゆとりが、人間的な魅力となって
仕事に還元されるのです。

特に真面目さを信条として生きている人は、
時にはハメを外して「不真面目な遊び」
興じてみることです。

そうすれば少しは、不真面目な生徒の気持ちが
理解できるようになるかもしれません。

もちろん、私はここであなたに不良教師になれ、
と言っているわけではありません。

あくまでたしなみとして、「不真面目」
経験しておくべきだと申し上げているのです。

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