自分が源泉

メンタル

現実を創り出しているのは自分

今、学年のあるクラスが崩壊しており、
そのクラスの生徒指導に駆り出される日々が続いています。

そういうわけなので、厳しく指導した生徒との関係が
しっくり行かなくなることも当然起こります。

そのクラスに授業に入った時、
なぜかいつもよりヤンチャ達の態度が反抗的で、
歓迎されていないムードを感じました。

もちろん、こちらは生徒達から多少の揺さぶりを受けても、
場を整えることができるので、
問題なく授業を行うことはできていたのですが、
どこかやりにくさを感じていたのも事実でした。

そんなある日、私は別に意図したこともなく
上機嫌でそのクラスに入り、楽しく授業を進めていたところ、
全体もその雰囲気に馴染んでしまい、
件のヤンチャ達もその日は楽しく授業に参加することができました。

授業が終わった後、生徒達の変化の理由について
あれこれと考えを巡らせていたのですが、
取り立てて何も思い浮かびません。

授業を変えるために、何か特別の工夫をしたわけでもなければ、
生徒との関係修復のために何かをしたわけでもありません。

前日には、廊下で騒いでいるヤンチャを大きな声で
叱り飛ばしてもいました。

考え得る理由としては、上機嫌でクラスに入り
授業を楽しんだことくらいなのです。

その時、突然脳裏に浮かんだのが、
「自分が源泉」という言葉です。

恐らく、授業に入るときにヤンチャ達が落ち着かなかったのは、
私の意識の中にどこか「大変なクラスだから」と
身構えるところがあったからでしょう。

それに対し、スムーズに授業が流れていった日の私には、
そうした意識がスッポリ抜け落ちており、
純粋に授業を楽しもうとする指導者の視点しか
なかったということです。

このことに気づいた時、
「まだまだ自責の本当の意味が理解できていなかったな」
と思いました。

授業がうまく行かない時、学級崩壊のせい、
ヤンチャ君の特性のせい、学習意識の希薄さのせい、
家庭教育のせい、と誰かのせいにしようと思えば、
無限に理由は出てきます。

もしかしたら、そうした指摘は的を射ているものも
あるのかもしれません。

でも、違うのです。

私の目の前にこのような現実が起こった以上、
自分の責任なのです。

「いやいや、学級崩壊を引き起こしたことや、
ヤンチャが特性を持っているのは自分の責任じゃないし。」

あなたがそう言いたくなるのは分かります。

確かに、学級崩壊を起こしているという事実や、
生徒に特性があるという事実は何をしようと
無くなることはありません。

でも、そうしたクラスに入っても、
淡々と授業を進める先生もいれば、
騒然として授業が進まなくなる先生もいるのです。

同じ条件下に置かれても、手にする結果は
人によって全く違います。

こうした現象面での、「違いをもたらす違い」
は何なのかを、きちんと考察するかどうかで、
人生は180度変わってしまうのです。

「自責」で生きるというのは、そういう意味なのです。

自分の目の前に、何か困った現実が引き起こされたとしたら、
その原因を創り出しているのは他人なのでしょうか、
それとも、自分なのでしょうか。

この自分に突きつける問いに対してどう向き合うかで、
全く違う人生に進んでいくのです。

イライラは伝染する

中村健一先生が、著書「策略 ブラック学級づくり」の中で
こう述べておられます。

「ある有名な実践家が、『私は朝が苦手なんで、
教室でも寝ぼけ眼です。朝からテンションは上げません』
と言っていた。
私は即座に『プロ失格だ』と思った。
その実践家の学校はさぞかし平和な学校なのだろう。
うらやましい話だ。
困難校では、そんな一瞬の気の緩みが命取りになる。
だから、私は朝から無理して上機嫌で過ごすのだ。」

これは生徒指導の基本中の基本だと思います。

私はこの言葉を胸に刻み、日々を過ごしています。

もちろん、ついイライラしてしまい、
「プロ失格」な対応をしてしまうこともありますが、
基本いい気分で過ごすことを心がけています。

そして、自分が発したエネルギーはそのまま自分に
返ってくることも、
日々実感しています。

逆に、生徒が激昂しイライラマックスの時などは、
こちらが平静を心掛けゆったりしたリズムで対応することが、
生徒をいち早く落ち着かせる秘訣です。

そのためにも、職場に向かう前の時間の過ごし方は
大変重要です。

陰惨な事件を扱うニュース番組は基本見ない、
妻の愚痴はできるだけ聞かない、筋トレやストレッチ、
呼吸法などで心身を整える、などの工夫をしています。

そうやって自分を整えていても、
職場に入ると暗い顔で近づいてくる職員の話も
聞かないといけません。

そうした時、私はできるだけ負のオーラに
同調しないよう注意しながら、
用件だけを手早く聞き取るように心がけています。

なぜなら、負のオーラには凄まじい感染力があり、
嫌な気分を引きずったまま教室に上がる羽目に
なってしまうからです。

それは、中村健一先生の言葉を借りるまでもなく、
生徒指導困難校においては大変リスキーなことなのです。

他人は自分の内面の写し鏡

「他人は自分の内面の写し鏡」とよく言われます。

私はこれまでこの言葉を、何となくしか
理解できていませんでした。

しかし、この言葉は文字通りの意味として
理解するべきなのです。

例えば、目の前に「嫌な人」が現れたとしたら、
「あの人は嫌な人、自分はあの人よりはマシ」
解釈するのではなく、
「あの嫌な人と同じ部分を、自分も持っているのかも」
振り返るべきなのです。

誰のためにそうするべきかというと、他でもない自分のためです。

確かに、自分の中に「嫌な面」があることを直視するのは
辛いことかもしれません。

でも、そのことに本当に気づけた人の目の前からは、
「嫌な人」が消えてしまうからです。

もちろん、「嫌な人」が物理的に消滅するとか、
「嫌な人」の性格が激変するとか、そういう意味ではありません。

あなた自身が変わった結果、
相手のことを「嫌な人」として認知しなくなる
という意味なのです。

昔の人が「他人は自分の内面の写し鏡」と
形容したのはまさに言い得て妙です。

人が鏡の前で自分の外見を整えるように、
相手という鏡を通して自分の内面を整えなさい、
と教えているのです。

自分が気づくまでトラブルは起こり続ける

こうした道理に基づくと、現実を変えようと思うなら、
外側の世界を変えようとするよりも内側を変える方が
はるかに効果的だということが分かるはずです。

逆に、自分の内側が変わらない限り、
いくら外側を変えようと頑張っても、
トラブルは起こり続けます。

なぜなら、内側にトラブルの種が
残り続けているからです。

「自責」とは、畢竟(ひっきょう)外側を
変えようとするのではなく、

内側に目を向けて自分を変えようとする
姿勢のことを指すのです。

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