すべての根本は愛

メンタル

あなたの学校には愛が溢れているか

愛が溢れているとは、何も職場恋愛や不倫が
横行しているといった意味ではありません。

人間的な温かみが校風としてにじみ出ているかどうか、
ということです。

もしも、学校に温かみが欠けているとしたら、
学校のトップたる校長の「在り方」に真因があると
考えるべきです。

たとえば、トップが学校としての「対外的な」実績作りや、
市教委・県教委の前で取り繕うことばかりを重視していると、
職員間にゆとりがなくなりギスギスしてきます。

中には、部下の手柄を横取りして、自分が表に立とうとする
人までいます。

決定権者に面と向かって逆らうことはできないので、
部下は黙って耐えるしかないのです。

どうしてこのようなことが起こるかというと、
トップの脳内に「自分がいないとダメな組織にしたい」
という無意識の願望が潜んでいるからに他なりません。

言葉は悪いですが、こうしたリーダーにとって伸びていこう
とする部下は「ライバル」のような煙たい存在なのです。

賢い部下は、こうしたリーダーから足を引っ張られないよう、
「嫉妬対策」に万全を期さなければなりません。

トップの本音を洞察しながら言動に気をつけないと、
思わぬところで「地雷」を踏んでしまう危険があるからです。

愛されたことがない苦しみ

もちろん、愛に欠けた組織が生まれるのは、
リーダー1人の責任とは言えません。

しかし、圧倒的な発信力をもつトップの影響力は、
やはり甚大です。

トップが愛に溢れていれば、それはサブリーダー、
中堅職員を通じて末端まで愛が通じていくのでは
ないでしょうか。

では、こうした「愛の欠如」という問題は
どうして起こるのでしょうか。

ズバリ言います。

それはこれまでの人生で、
きちんと人を愛したり、愛されたりする
経験を積んでいるかどうか、ということです。

「えっ、それってモテるかどうかってこと?」

いいえ、ここではモテるかどうかを
問題にしているのではありません。

同性であれば「親友」、
異性であれば「恋人」といった、

じっくりと誰かと深く付き合った
経験の有無を
問うているのです。

ちなみに、私がこれまで観察してきたところでは、
人間関係が希薄なまま人生を送ってきた人たちには
次のような特徴がありました。

「重箱の隅をつつくように細かいことに
目くじらを立てて、頑として自分の意見を譲らない」

「自分の職分を勝手に決めてしまい、
少しでも仕事を振られそうになると
決定権者のところに乗り込んでいって文句を言う」

「意地が悪くネチネチと嫌味で人を困らせて楽しむ」

「コミュニケーションスキルに難があり、
人の神経を逆なでするようなことを平気で言う」

まさに「組織のガン」とも言うべき迷惑行為の数々ですが、
これらすべての根源にあるのが「愛に対する渇望感」
であることを深く理解しておく必要があります。

特に、女性にとって「誰かに愛される」というのは、
存在意義にかかわる人生で最も重要な課題です。

好きな異性と一緒であれば、ファミレスで済ませる
夕食でさえも幸せを感じられますが、
いくらお金があって1人で高級レストランに入って
食事ができたとしても、空しさを覚えてしまうのが
女性という生き物です。

実は私の知り合いにも、こうした女性がいます。

彼女はアラフィフの独身女子ですが、
好きな男性ができると「恋は盲目」状態に陥り、
犯罪すれすれのストーカー行為を繰り返します。

そのたびに上司から指導を受けるのですが、
まったく意に介するところがありません。

それどころか、生徒たちに対しては平気でけなしたり、
皮肉を言ったりするので、人間関係がボロボロになってしまい、
学級経営や生徒指導を任せることもできません。

県教委が主催するブラッシュアップ研修なども受けているようですが、
どうも的を外しているような気がしてなりません。

彼女が求めているのは、「誰かに愛される」という
経験であり、そこが満たされれば彼女の荒ぶる心も
平穏を取り戻すであろうことは火を見るよりも明らか
だからです。

彼女は仕事に対する情熱は十分に持っているので、
本当に惜しい限りです。

自分に対する無条件の愛

元カリスマ塾講師で、現在は人材開発研修を手がけている、
木下晴弘さんという方がいらっしゃいます。

木下さんは難関校を受験する膨大な数の子ども達を育てる中で、
行き着いた結論があるそうです。

それは、「すべての人間は幸せになるために生きている」
ということです。

「難関校に合格するのは何のため?」

「有名大学に入るのは何のため?」

「第一希望の就職を実現させるのは何のため?」

それらすべてを煎じ詰めると、
「幸せを獲得するため」
という結論にたどり着くのです。

では、第一志望の受験を突破できれば、
人は幸せになれるのでしょうか。

木下さんの元に、かつての教え子から
電話がかかってくることがあるそうです。

「難関校」に合格を果たし、
だれもが知る「一流企業」に入社して、
「経済力」も手に入れて、
エリートとしての人生を送る教え子。

当然、幸せになっていなければならないはずなのに、
彼の口から聞こえてくるのはままならぬ人生に
呻吟する苦渋に満ちた声。

卓越した受験指導を施すだけでは、
人は幸せになれないことを木下さんは知るのです。

では、人が本当の意味で幸せになるには
どうすればいいのでしょうか。

「自己存在の承認」が鍵であると、
木下さんは言います。

これは「ただそこにいるだけで、
自分は素晴らしい価値ある存在だ」と、
何の疑いもなく信じ込める状態のことです。

しかし哀しいかな、大人になった私たちの「心」には、
たくさんの思い込みがへばりついています。

「受験に失敗した私」
「たいして優秀ではなかった私」
「好きな人にフラれた私」
「お金持ちではない私」

結果、「私って世間的に見て
全然価値がないじゃん」

結論づけてしまうのです。

あるいは、「世間的な価値」を獲得するために、
生涯をかけて奔走し続けてしまうのです。

「外的」に自分の価値の裏付けを求めるだけ
のために。

木下さんは言います。

自分に対する「無条件の愛」を手に入れた人は、
とんでもないエネルギーを発揮して、
借り物ではない自分自身としての人生を生きるのだ、と。

親は我が子が誕生した瞬間、
「ただ無事に育ってくれさえすればいい」と、
無条件の愛を惜しみなく注いでくれます。

しかし、「這えば立て、立てば歩めの親心」とあるように、
長ずるにつれ、親は我が子に対して「存在に対する承認」から
「できたことに対する承認」へとシフトしてきます。

親でさえ与えてくれない「自己存在への承認」を、
まして赤の他人が与えてくれるはずもなく、
私たちは「愛の迷子」と化してしまうのです。

もしかすると人生とは、長ずるにつれ失ってしまった
「無条件の愛」を取り戻すための冒険の旅なのかも
しれません。

1つだけ言えるのは、私たちは持っているものしか
人に与えることはできません。

目の前の子ども達を愛することができるのは、
愛に満たされた教師だけなのです。

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