人は勝手に育つもの
教育者というと、人を「教え育てる」仕事だと、
一般には認識されています。
でも本当にそうでしょうか。
「教える」のは事実だとしても、
私たちに誰かを「育てる」ことができるのでしょうか。
たとえば、武道館を満員にするロックミュージシャンを育てたのは、
音楽の先生でしょうか。
歴史に名を残す文豪を育てたのは国語の先生でしょうか。
あるいは、日本代表のトップアスリートを体育の先生が
育てられるのでしょうか。
たとえプロチームの監督やコーチだって、
日の丸を背負うトップアスリートを育てることなど
できやしません。
彼らは、彼ら自身の持って生まれた才能を開花させたことで、
自ら育っていったのです。
もちろん、彼らを取り巻く様々な環境や
周囲の人々の手助けがあったことは否定しません。
しかし、最終的に「育つ」かどうかを決めるのは、
その人自身であって親や先生の力ではないのです。
このことをきちんと理解しておかないと、
大変傲慢な考え方になってしまいます。
たとえば、世に出て行った後輩を指さして、
「あいつはオレが育てたんだ」などとのたまう行為は
本当に恥ずかしいことです。
でも、これが自分のこととなると、
客観的な視点を失ってしまいがちなのが人間です。
「ロバを水辺に連れて行けても、水を飲ますことはできない」
とことわざにあるように、私たち教師にできることは、
生徒を水のある場所に連れて行くところまでなのです。
水を飲まない生徒に対して、無理やり口を開けさせて
水を飲ませようとするのは教育ではなく虐待です。
水を飲むかどうかを決めるのは、あくまで生徒。
その視点を持ち続けることが、
良い教師の条件の1つなのです。
人を育てる前にすべきこと
その人の生き方は顔つきにすべて出ます。
毎日定時に退勤して、ダラダラ過ごしている人は、
締まりのないボーッとした顔つきになります。
あなたの周りにも、そんな顔をした同僚は
たくさんいるのではないでしょうか。
ここで生徒の気持ちになってもらいたいのです。
締まりのない顔をした教員に、
何かものを教わりたいと思うでしょうか。
恐らくその答えはノーでしょう。
むしろ、そんなダラダラ生きている教師から
説教でもされようものなら、
「お前が言うなよ」と反発したくなるかもしれません。
そう考えると、「生徒指導」「教科指導」の根本は、
教師自身の生き方の在りようが問われているのだ、
と気づくはずです。
日常をダラダラ生きている教師が、
まずやるべきは「自分との約束を守ること」です。
これは何でもいいのです。
「毎日筋トレをやる」でもいいし、
「週に1度英語の勉強をする」でもかまいません。
とにかく、自分が決めた目標をキッチリやり遂げる
習慣を身に付けるのです。
これを半年、1年と続けていくと、
「自己肯定感」「自己重要感」が
ジワジワと上がってきます。
三日坊主で、なかなか自分との約束を守れない人は、
いきなり大きな目標を立てないことです。
最初は小さな目標で構わないのです。
筋トレがなかなか続かない人であれば、
「腕立て伏せを5回」という目標でもいいのです。
それでも無理な人は、「腕立て伏せ1回」でも
構いません。
「そんな小さな目標を立てても、意味がないじゃないか」
と思った人は、大きな勘違いをしています。
目標を立てるのは、究極のところ何か成果を手に入れる
ためではありません。
あなた自身の「自己肯定感」や「自己重要感」を上げ、
自信を身に付けるためにやるのです。
自信とは、「自分を信じる」と書きます。
自分を信じられるようになるには、
「自分との約束を守る」こと以外に方法はありません。
いつもいつも、自分との約束を反故にしてきた人は、
まるっきり自分のことを信じることができません。
「どうせオレなんて負け犬だし」といった、
地を這うようなセルフイメージしか持ち合わせていないのです。
こういう人は、「仕事」でも「恋愛」でも、
何をやっても結果は出ません。
地道にコツコツと自分との約束を守りながら、
自信を育てながらセルフイメージを変えていくことです。
「小さな目標」を守れる自分から、「大きな目標」を守れる
自分に変わってきた頃、あなたの周囲を取り巻く人脈、
状況は大きく変化し、まったく違う人生のステージに
立っているはずです。
中心軸をぶらさない
「リーダーとして最も大事なことは?」と問われたら、
「中心軸をぶらさないこと」だと即答します。
中心軸をぶらさないとは、身体的にも心理面や
思考面のすべてにおいて、ということです。
たとえば、水飲み場まで連れて行っても、
水を飲もうとしない生徒がいるとします。
このときに、「どうしてあなたは水を飲まないの」
と説教したり、
「いいからオレの言うことを聞け」と
無理やり口をこじ開けたりするのは、
中心軸がぶれている証拠です。
中心軸を保つ教師は、水飲み場まで連れて行ったら、
そのままじっと生徒を見守ることまでしかしません。
「それで教育と言えるのですか」と反論したくなったあなたは、
まだ教育の本質が見えていません。
確かに教師がいろいろと手助けして、水を飲ませることは可能です。
特に、指導力のある教師は「人を動かす力」に長けているので、
様々な手法を使って生徒を動かすことはできるでしょう。
しかし、その結果、生徒は「自立心」を失ってしまいます。
換言すると、生徒が困難を乗り越える力をスポイルして
しまっているのです。
人を「育てる」のとは対極の方向に進んでいっていることが、
ご理解いただけることと思います。
話を中心軸に戻します。
教師にとって「中心軸を保つ」とは、
生徒が「育つ」のをじっと待つ行為です。
なぜなら、生徒たちは性格も能力も、
成長の度合いもそれぞれに違うからです。
サッと水を飲める生徒もいれば、
水を飲むのに逡巡する生徒もいるのです。
それぞれが適切なタイミングで、
成長に向かうのを根気強く待つためには、
中心軸を保ち続ける以外にありません。
それに対して「育てよう」とあれこれ手を尽くすのは、
生徒それぞれの事情を考えない教師の自己都合だと
言えなくはないでしょうか。
生徒が均一にゴールに向かう姿を見て、
安心したい気持ちが「育てよう」という行為に
にじみ出ていると言ったら、少々うがち過ぎでしょうか。
「中心軸を保つ」ことは、「何もしないこと」とか
「指導放棄」ではありません。
たくさん指導の引き出しを持っている教師が、
「あれこれ口を出したくなる」気持ちをグッとこらえ、
成長に向かおうとする生徒の「自立心」の芽生えを
邪魔せずに待つこと。
これが「中心軸をぶらさない」という言葉の真義です。
中心軸を保ち、「場の空気」を整えながら
生徒の成長を待つのは、
プロの教師にしかできない「人育ての技術」なのです。
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