自分は自分、人は人

メンタル

人をジャッジすると自分も裁かれる

他人の欠点をクドクド責める人がいます。

そのときは、自分が優位に立ったような気がして
気分がいいかもしれません。

しかし、相手に対して行ったジャッジは、
時と場所を変えて必ず自分に返ってきます。

私にはこんな体験があります。

とある学年の生徒指導を一手に引き受けて大変だったとき、
いつも心の中で「あの先生がもっとしっかりしてくれたら」とか
「なんで自分の持ち場をもっと頑張ってくれないんだ」と
毒付いていたことがあります。

内輪の飲み会などで愚痴ることもしばしばありました。

そして、その数ヶ月後、とてつもなく大きな反動が返ってきて、
仕事面で相当にきつい思いをしました。

そのときは、「なんでこんな目に遭うんだ」と、
まったく理由が思いつかなかったのですが、
あるときふと「ああ、これは数ヶ月前に
自分がしてきたことが返ってきたんだ」と
腑に落ちたのです。

自分の傲慢さ、冷徹さに思い至ったとき、
人を責めること、ジャッジすることの不毛さを知りました。

そして、「因果応報」として自分がしたことが
例外なく返ってくるという真理を、
まざまざと見せつけられることとなったのです。

不思議なことに、私が現象の背景を洞察すると、
ほどなくしてその大変な状況は消えていきました。

外側の現象に対して私が行ったことといえば、
ごく当たり前の対応だけです。

何か特別な秘策を用いたわけでもないし、
そんな小細工が通用するような状況ではありませんでした。

それがある時を境に、プッツリと何事もなかったように
沈静化してしまったのです。

改めて、問題解決の本質は「自分を変える」ことに
あるのだと悟らされた出来事でした。

「みんなちがって、みんないい」という金子みすゞの言葉の意味が、
実体験を伴って深く理解されるようになったのはこの体験を経てからです。

たとえば、先生たちの中には「生徒指導を得意とする」人もいれば、
「子供に優しく寄り添い心を開かせることを得意とする」人もいます。

どちらが上で、どちらが下ということはありません。

その時々の場面状況に応じて、求められる能力が
異なるというだけの話です。

逆に言えば、生徒指導に長けた先生は、
優しく子供に寄り添う指導は不得手かもしれません。

一方で、優しく子供に寄り添う指導に長けた先生は、
厳しく生徒に接する生徒指導が不得手かもしれません。

お互いの得意を活かし、不得手を補い合うのが組織の目的であり、
組織の一員である以上、誰もがその恩恵に浴していると言えるのです。

「いいや、そんなことはない。自分は一人でなんでもこなしている」
と考える人がもしもいるとしたら、
近い将来周りから人が離れていって孤立することは避けられないでしょう。

自分のできていない部分、ダメな部分を真正面から受容できる人。

そして、自分のダメな部分をきちんと曝け出せる人がいたら、
すごく魅力的だと感じないでしょうか。

もちろん、こんな人のことをこそ、周りは助けたいと思うのです。

なぜなら、自分のダメさを受容し、そんな自分を認められる人は、
周りの人の欠点もそのおおらかさで受け止めることができるからです。

まさに、「みんなちがって、みんないい」です。

自分のことをゆるし、他人のこともおおらかな心で受け入れる。

寛容なゆるさでつながれると、人間関係は驚くほど楽になるのです。

人目を気にする人生から脱却しよう

人間関係の中で、自分を出すことを
苦手に感じる人がいます。

彼らは、他人からどう見られるかを
過剰に気にしているのだと思います。

たとえば、職場の同僚からランチに誘われた。

でも、今日は一人でのんびり本でも読みながら
弁当でもつつきたい気分だとします。

こんな時、あなたならどうするでしょうか。

あるいは、突然週末に職場の飲み会を企画された。

でも、今月はお小遣いがピンチで
あまり参加したくないとします。

こんな時、あなたならどうするでしょうか。

「断ったことで、今後の人間関係が悪くなったらどうしよう」と、
少なからず悩むのではないでしょうか。

ハッキリ言いますが、そうした悩みは不毛です。

そもそも、そのくらいであなたのことを嫌う相手なら、
とっくにあなたのことを嫌っているはずです。

仮に、誘いを断ったことで嫌われたとしたら、
その程度の人間関係だったということです。

そんな相手のために、自分を殺してまで合わせる必要が
いったいどこにあるというのでしょうか。

ちなみに私は気乗りがしない誘いには、
0秒で断ります。

生きていれば我慢しなければいけないことはたくさんあるのに、
そんなことにまで我慢する意味がわからないというのが本音です。

その代わり、自分が人様から断られたとしても、
気持ちよく受け入れようと考えています。

そもそも、人に対して期待があるからこそ、
「断られたらどうしよう」と悩むのです。

いい意味で人に対する期待を捨てれば、
もっと心が楽になるはずです。

そもそも、過去と他人は変えられません。

その変えられるはずのない他人を変えようと
頑張るところから、地獄が始まるのです。

この原則は、子育てや生徒指導にも適用されます。

大事なのは子供を変えようとしないこと。

自分が変わった結果として、子供が変わるのです。

ダメな自分も許してあげよう

人に対して愛を持って接することができるのは、
いったいどんな人でしょうか。

それは、自分のダメダメなところを
真正面から受容して、

そんな自分も愛せる人です。

畢竟、自分を愛せる人だけが、
周囲に愛を注ぐことができるのです。

だからこそ、自分をもっと甘やかして、
本音ファーストで大好きに生きる必要があるのです。

幸せというのは、自分が自分として
この世に存在できることに他なりません。

どんなに地位や名誉を手に入れたとしても、
カゴの中の鳥のように他人の意のままに生きることを
強いられるとしたら、私にとってそれは絶望以外の
何ものでもないように感じます。

とはいえ、大好きに生きることを野放図に
生きることだと誤解されても困ります。

どんなに好き勝手に生きられたとしても、
生かされている自分を忘れてはいけません。

自分は誰かのことを支えているように、
自分も誰かに支えられて生きているのです。

当たり前に思える日常は、
決して当たり前ではないのです。

有難いご縁が積み重なった結果、
自分という命がこの世に誕生した奇跡を
決して忘れてはならないのです。

いついかなるときも「感謝」の二文字を
念頭におくこと。

それが好き勝手に生きるための条件なのです。

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