経験だけでは教育できない時代
経験年数10年を超えると、
ほとんどの教師は経験や勘に
頼るようになります。
しかし、この考え方こそが、
没落への第一歩なのです。
なぜなら、自分はどんどん歳を取り
古くなっていく一方で、
時代はどんどん先に進んでいくからです。
定期的に自分をアップデートしない教師が、
時代に取り残されてしまうのは必定なのです。
つい先日、とある先生が宿題を忘れた生徒の机を廊下に出して、
外で給食を食べさせたという話を聞きました。
もしかしたら、20年前まではそうしたやり方も
通用していたのかも知れませんが、
現在ではそうした行為は指導ではなく
体罰とみなされます。
いまだにこのような認識で教壇に立っている先生が
いらっしゃるということは俄かに信じ難いのですが、
紛うことなき事実なのです。
自分の経験や勘に頼って教育していると、
市教委に訴えられたり、
裁判の被告席に立たされたりしてしまいかねないので、
本当に注意が必要です。
「不易と流行」という言葉がありますが、
変えるべき点と変えてはならない点をきちんと仕分けして、
自分軸を確立しない限り、
混迷を極める教育界で勤務し続けるのは
困難な時代になったことを自覚しなければなりません。
生徒指導、学級経営、教科指導の原理・原則を弁える
原理・原則と一口に言いますが、
原理と原則はそれぞれ別の言葉です。
原理とは自然界に備わっている摂理のことで、
原則とは原理から人間が導き出した法則のことです。
すなわち、原理・原則に則って行動すれば、
自ずと自然の摂理に適うことになり本質と
合致するということなのです。
私は教育における原理・原則について、
堀裕嗣先生の「10の原理・100の原則」シリーズから
多くを学ばせていただきました。
特に、「生徒指導 10の原理・100の原則」
「学級経営 10の原理・100の原則」
「一斉授業 10の原理・100の原則」は熟読玩味し、
そのエッセンスをしゃぶり尽くさせていただきました。
コロナ禍で学校が一斉休校になった時など、
教室にこもって「10の原理・100の原則」シリーズの
エッセンスを抜書きしながら、黙々と勉強していた
時のことを懐かしく思い出します。
この時、ほとんどの先生方が業務以外の暇な時間を
雑談に費やしていたことを思うと、
本当にいい時間の使い方をした、
とありがたい気持ちでいっぱいになります。
こうした「原理・原則」は、
教育における「不易」の部分になります。
「不易」をきちんと押さえているからこそ、
基軸を保ったまま「流行」を取り入れることが
できるのです。
抜書きした内容をファイルにまとめ、
しばらく毎日のように読み返していましたが、
ほとんど頭に入ってしまったので、
最近はたまに見返すだけです。
でも、この時に勉強したことが、
現在の自分の実践の支えとなっており、
やっておいて良かったと心から思います。
教育雑誌で最新情報を仕入れる
教育の「流行」の部分については、
教育雑誌を購読するのがおすすめです。
教育雑誌については、サーっと気になるページだけを
通読するようにしていますが、見出しに目を通すだけでも、
時代を象徴するキーワードが何かを知ることができ有益です。
ただ、教育雑誌については、私自身積読してしまう傾向があるので、
週末などにそのための予定を入れて、
きちんと読むようにしたいと考えています。
教育論文を書いてみる
自身の指導実践を客観的に評価するために、
教育論文を書いてみるのもおすすめです。
半年間、大学に派遣研修に行かせていただいたことがあり、
そこで研究したことを現場に帰ってから実践し、
それを論文にまとめたことがあります。
ともすれば教師は実践家になりがちで、
自らの実践を主観的に評価してしまうきらいがあります。
大学の先生方に伺った話では、
応募があった教育論文の過半数は
「実践のまとめ」の範疇から抜け出せていない
のだそうです。
「確かに、実践としては見事。
でも、客観性を担保する論文としての
体裁をなしていないのが玉に瑕である」と。
私は大学の派遣研修で、論文の書き方について
1から学ばせていただいたのが役に立ちました。
中学3年の学担をしているときで、
28日の仕事納めギリギリまで入試事務に精励し、
冬休みに入った時点から論文執筆に取り掛かり、
大晦日に大掃除を済ませ、
紅白を見ながら論文を書いていたのを思い出します。
なかなかに体力的にも精神的にもきついのですが、
客観的に自分の実践を評価することで、
理論的に深く考察する最良の機会であったと感じています。
でも、論文で賞をいただいたことで、
その後いろんな仕事が回ってくるようになり、
多くのチャンスをいただけたという点では、
頑張って良かったと心から思います。
映画や文学に触れる
教師としての幅を広げるには、仕事に一見役に立たないことを
広く学ぶことも大事だと感じています。
例えば、流行りの映画を観に行ったり、
名作と呼ばれる作品に触れたりすることは、
心を豊かに耕してくれます。
それだけでなく、子供とのちょっとした雑談の話題になったり、
授業作りのヒントになったりと、
有形・無形に助けになってくれることがあります。
また、「事実は小説より奇なり」というように、
優れた文学作品には「人間」の本質が活写されています。
もしもあなたが、「文学なんて、暇つぶしの娯楽だろ」
と軽んじているとしたら、その認識をすぐにでも
改めた方が良いでしょう。
高学歴が集う一流企業において不祥事を起こす人には、
ある特徴があるそうです。
それは、仕事に直接役に立つビジネス書以外には、
小説の類を一切読まないことだそうです。
小説を読まない人は、人の心の痛みに鈍感になりやすく、
平気で人を傷つけてしまうこともあるのだそうです。
「想」という文字は、相手に心を向けると書きます。
想像力を働かせながら小説を読む行為は、
まさに「相手を思いやる心」そのものであり、
人間を深く知ることにつながります。
教師という仕事が人間を相手にしている以上、
人の心について勉強不足では困ります。
普段文学に触れたことがない人は、
まずは娯楽小説から読み進めて活字の世界の
魅力を堪能してみてはいかがでしょうか。
遊ばない教師に未来はない
学ぶことと同じくらい大事なのが、遊ぶことです。
生徒の気持ちになってみてほしいのです。
自分の人生を楽しんでいない教師に、
何かを教わりたいと思うでしょうか。
教師自身が満たされているからこそ、
生徒たちに与えることができるのです。
まずは、自分を満たすこと。
そのためにも、手帳の中に遊ぶ予定をきちんと入れて、
プライベートでも充実した人生を歩むことが
時代の変化に対応できる柔軟性を保つことに
つながるのだと感じています。
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