教師は子供に育てられる

メンタル

目の前の子供が先生

新人の頃先輩教師から、
「苦言を呈されるのは若いうちだけ。
年を取ったら、誰も何も言ってくれなくなる」
とよく言われたものです。

その頃は、叱られるたびに鬱陶しいと感じていたものですが、
今となっては「本当に私のためを思って言ってくれていたのだな」
と感謝しかありません。

それでもまだ30代の頃くらいまでは、
きついことを言ってくださる先輩方がいらっしゃいました。

しかし、40代になると、
さすがに誰も何も言ってくれなくなりました。

だからといって、私が完璧な人間に成長したわけでは
ありません。

周囲が私の欠点に気づいたとしても、
表立って口に出してくれなくなっただけのことです。

教師はここから2通りのタイプに分かれていきます。

誰からも文句をつけられなくなったのをいいことに、
我流に凝り固まっていくタイプ。

自分なりに工夫改善を続けながら、
初心を忘れず精進を重ねるタイプ。

比率的には前者が9割以上、
後者は1割にも満たないのではないでしょうか。

では、誰からも何も言われなくなったベテランは、
何を指標に自分を磨けば良いのでしょうか。

それは「目の前の子供を先生とする」ことです。

クラスがざわついて落ち着かないとしたら、
それは自分の学級経営の責任。

授業がイマイチ盛り上がりに欠けるとしたら、
それは自分の授業力の責任。

イジメを苦にして不登校が増えているとしたら、
それは自分の生徒指導力の責任。

逆も然りです。

クラスが落ち着きを取り戻してきたとしたら、
それは自分の学級経営が功を奏してきたということ。

授業に盛り上がりと活気が出てきたとしたら、
それは自分の授業改善が功を奏してきたということ。

イジメや問題行動が沈静化してきたとしたら、
それは自分の生徒指導が功を奏してきたということ。

確かに、子供には教師の教育実践力をつぶさに
評価する力はないかもしれません。

しかし、彼らは子供なりに教師の本質力を
ピシャリと見抜いています。

そこは全く侮れません。

教師が教育のプロなら、
生徒は教育を受けるプロなのです。

彼らは力のある教師とそうでない教師とを
シビアに見分けるのです。

こちらの至らなさに対して、
見ぬふりをしてじっと我慢してくれる生徒に
甘んじてはいけません。

反抗的な態度をとって、
教師の力不足を指摘してくれる生徒こそ、
私たちにとって最高の先生なのです。

もしも大変なクラスに当たったら

前年度に学級崩壊を起こしたクラスや生徒たちというのは、
新年度になってもその余波を引きずったまま
新しいクラスにやってきます。

そうしたクラスや生徒を担当するのは、
正直言ってしんどいです。

教師はここから2通りのタイプに分かれていきます。

「このクラスはハズレだ」と周囲に愚痴や不平不満をこぼしながら、
不貞腐れて1年をやり過ごそうとする教師。

「この1年を、自分を磨く機会にしよう」ととらえ、
さらに精進を重ねる教師。

これは本当に不思議なのですが、
本気で後者の生き方を選ぶ覚悟を決めると、
途端に目の前の景色が変わり始めるのです。

あれほど口汚く教師に対して反抗していた
ヤンチャの態度が少しずつ軟化していき、
彼らなりに教師に対して協力的になってくるのです。

ポイントは「本気」になることです。

なぜ本気になる必要があるかといえば、
自分の中に確固たる「軸」を築くためです。

本気になっていない間は、軸がブレブレです。

表面的に「頑張ろう」と思う程度の決意では、
厳しい現実の前に吹き飛んでしまいます。

「どんなことがあろうとも、このクラスに骨を埋める」
という覚悟ができたときに、初めて現実が変わるのです。

もちろん、こんなことは何人にも勧められることではありません。

「今の自分には無理」と思うなら、逃げ出すのも立派な決断です。

精神を病んだり、自死を選んだりするくらいなら逃げる方がマシというか、
教師は自分を壊してまで続ける仕事ではありません。

ただし「人生の壁」というのは、いくら逃げたところで
「時」と「場所」を変えて、いずれまた目の前に現れる
ということも覚えておいてほしいと思います。

生徒の姿は教師の脳内を顕在化したもの

よく言われることですが、
会社組織はトップの器以上には大きくなりません。

なぜなら、会社の社員の姿は、
社長の頭脳をみごとに顕在化するからです。

同様に、目の前の生徒の姿は、
教師の脳内を顕在化したものと言えます。

教師の中に、「目の前の生徒をこのように育てたい」
という指針があれば、生徒たちは無意識のうちに
そのように育ちます。

逆に、教師の中に、「目の前の生徒をこのように育てたい」
という指針が何もない場合、生徒たちは集団ではなく
ただの群れになってしまいます。

だからこそ、教師は常に勉強をして
自分を磨き続ける必要があるのです。

教師がちっぽけな器しかなければ、
目の前の子供達は各自の持つ可能性を十分に引き出すこともできず、
ちっぽけな器にしか育ちません。

逆に、常に自己研鑽や多様な経験を通して視野を広げている
教師の下からは、大きな可能性を開花させる子供が
どんどん育っていくはずです。

教師というのは、「他人の人生に責任を負っているのだ」
という自覚を常に忘れてはならないのです。

目の前の生徒がショボいということは、
教師としての自分がショボいということ。

目の前の生徒が無気力で活気がないということは、
教師としての自分にやる気がないということ。

目の前の生徒の姿は、教師である自分自身を測る指標
であると覚えておくことです。

教師の本質は生徒を伸ばすこと

最後に、生徒がついていく教師の特徴について
お話しします。

それは教師という仕事の本質をきちんと押さえている
ことです。

言うまでもなく教師という仕事の本質は、
「生徒を教え導くこと」です。

「給料のために」とか「生活のために」働くのは、
ある意味仕方のないことです。

しかし、働く理由がそれだけというのは悲しすぎます。

この世界に数多ある職業の中から、
どうしてわざわざ教師を選んだのか。

その理由が明確な教師は、
本質がブレません。

そして、軸がビシッと立っている教師は
人としても魅力的です。

そういう「カッコいい大人」についていきたい
と思うのが、人情です。

多少、授業が下手くそだとしても、
生徒指導が多少厳しかったとしても、
「生徒たちを伸ばしたい」いう思いが根底にある教師は
生徒からも一目置かれます。

教育が人間相手の仕事である以上、
人間的に魅力的であることは何よりも
アドバンテージなるのです。

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