「竹取物語」は日本最古の恋愛失敗物語
中学1年の国語の教科書に出てくる古典教材に、
「竹取物語」があります。
中学1年では、歴史的仮名遣い、語句の意味などを押さえながら、
とにかく何度も音読させ、古文のリズムに慣れさせることを
主眼として授業を行います。
しかし、私には積年抱えている密かな悩みがありました。
「竹取物語という、ツッコミどころ満載の教材を扱う授業を、
そんなにサラッと何事もなかったかのように終わらせても
よいものだろうか」と。
「むろん、そのことについて議論するには、
中学1年生はまだ早すぎる。
最低でも、中学3年くらいの精神年齢はないと難しい。」
などと、独り悶々としながら教鞭をとることはや20数年。
ついに、満を持して我が持論を発表しようと決意した次第です。
「竹取物語」はただの物語などではありません。
日本最古の「恋愛失敗物語」なのです。
思い出してください、かぐや姫に求婚した5人の貴公子たちが
どのような運命をたどったか。
多額の私財を投げ打ったあげく偽物をつかまされ、
あげく詐欺師扱いされたり、命からがらの目に遭って、
重い病にかかり身罷ったりと、ことごとく不幸になっている
ではありませんか。
関わった男を不幸にする女性のことをサゲマンと言いますが、
かぐや姫こそまさに究極のサゲマンと呼んでもいいのでは
ないでしょうか。
いやはや恐ろしい女です。
あげくは帝まで夢中にさせ、再三のお召しにも首を縦に振らず、
月の世界へと帰っていくのです。
かぐや姫を忘れられない帝は、富士山の山頂で不死の薬を焼かせ、
その煙がどこまでも立ち上ったのだとか。
文字通り、当時の最高権力者をも煙に巻き、
かぐや姫は何食わぬ顔で去っていったのです。
このどこまでも救いのない感じ、
中学生にはまだわからないだろうな〜。
平安時代の恋愛の決め手は、口コミと偶像崇拝
平安時代の貴族たちの恋愛は、現代とはかなり異なっていたようです。
年頃の姫君がいると、お付きの者たちがしきりと
「どこどこに、たいそう見目麗しい姫君がおわす」
などと噂を流します。
その噂をキャッチした貴公子たちは、
姫君の気を引こうと和歌(ラブレター)をしたためて、
お付きの者に送ります。
姫君は、送られてきた和歌を読み比べて、
よさげなものが見つかると「わらわはこの方に会うてみたい」
などとリクエストを出して、相引きが成立するのです。
とはいっても、今のように駅前で集合とか、
カフェでお茶をするわけではありません。
夜に、突然家に忍んで行って、
暗闇の中で初顔合わせをするのです。
貴公子と姫君は、暗闇の中で相手の容姿を思い描き、
妄想の中で恋に落ちるのです。
現実の相手ではなく、妄想の中で作り上げた偶像に恋をする、
いわば偶像崇拝としての恋愛が成立していたのです。
現代人の私たちから見たら、ツッコミどころ満載の
シチュエーションで恋愛が行われていたのが
平安時代の貴族たちの生活です。
竹取物語とは、そのような時代に行われていた
恋愛模様を描いた物語であると言えるのです。
崇拝と隷属の歪んだ力関係
よく「恋愛は追えば負け、追わせる恋愛が勝ち」
などと言われます。
でも、確かにそれはその通りであり、誰かを崇拝した方が
隷属の立場に置かれるようになっているのです。
しかも、5人の貴公子たちはかぐや姫に対して持っているのは、
口コミとして流れてきた「あたりを輝かせるほど美しい女性」
であるという噂のみ。
恋愛としては、完全な負け筋です。
つまり、噂に流されて素性の知れない女性に求婚した時点で、
5人の貴公子たちには、もはや万に一つも勝ち目はなかったのです。
告白にしろ、プロポーズにしろ、一か八かでやるものではありません。
「9分通りうまくいく」という確信が生まれてから、
確認作業として淡々と行うものです。
相手の気持ちも確認できないまま、
一方的に好意を押し付けることを非モテコミットと言います。
つまり、5人の貴公子たちは強烈な非モテコミットを
発動してしまっており、かぐや姫にフラれるのは
もはや必然の運命だったのです。
それにしても、かぐや姫のあの強気な姿勢。
普通の男だったら、激怒して席を立って出て行っても
いいくらいの場面です。
しかし、惚れた男の弱みでしょうか、
恋は盲目状態に陥っている貴公子たちは黙って従うのみです。
この歪んだ力関係と、不毛な恋愛。
ああ、中学生にはまだわからないんだろうな〜。
「貴公子たちよ、顔が綺麗?それがどうした」と、私は言いたい。
今をときめくアイドルでも、1日に必ずうんこするのだ。
誰かを尊敬してもいいが、崇拝だけはしてはいけません。
誰かを崇拝すると、相対的にセルフイメージが下がります。
尊敬は力になります。
しかし「この人にはかなわない」という崇拝に変わった瞬間、
相手を大きく、自分を小さく見積もる心理が生まれます。
崇拝と隷属とはワンセット。
追う恋愛が必ず負けるように、
崇拝は人生に敗北をもたらします。
「竹取物語」でもっとも印象的なのが、
ラストでかぐや姫が天の羽衣を身に纏うシーンです。
それまで、翁や嫗との別れを悲しんでいたのが嘘のように、
冷然として2人を見捨てて月へと旅立っていくのです。
私は、これは1つのメタファーであり、
崇拝する側が不幸になるだけでなく、
崇拝される側も人の心を失ってしまうということを
象徴しているのではないかと考えています。
もちろん、これは私の勝手な深読みであることは言
うまでもありません。
とはいえ、かぐや姫は絵本に描かれているような、
ただのきれいなお姉さんではありません。
純情な男たちの心を弄んだ、薄情極まる
稀代の悪女だったのかもしれません。
だが、ここまで書いてきて気づく。
本当に恐ろしいのは、かぐや姫なのでしょうか。
彼女は一度も「私を愛してください」と頼んでいません。
勝手に噂を聞き、勝手に恋をし、
勝手に人生を賭けたのは男たちの方です。
つまり、かぐや姫が男たちを不幸にしたのではありません。
男たちは、自分たちが作り上げた「かぐや姫という偶像」に
人生を差し出して、自滅したと言えないでしょうか。
もちろん、「偶像崇拝と非モテコミットは人を不幸にする」
などというのが、『竹取物語』の裏テーマだったと断言はしません。
けれども千年以上前の物語を読みながら、
私たちは今でも同じような失敗を繰り返していることに気づかされます。
まだよく知らない相手を美化する。
自分の頭の中で勝手に物語を作る。
そして、その偶像に向かって自分の時間や感情や
人生を差し出してしまう。
かぐや姫を崇めた男たちが不幸になったのは、
かぐや姫が悪女だったからではありません。
彼らが、ひとりの女性を「人間」として見ることを
やめてしまったからなのかもしれません。
その教訓を、この物語から中学生が汲み取れるかって?
まあ無理だろうな〜。

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