教員は誰でもできる仕事ではない

メンタル

中途退職者に思うこと

今年になって、同僚が3人中途退職する姿を
目撃しました。

1人は正規の職員、もう1人は再任用の職員、
そして、最後の1人は異業種を定年退職されて
中途採用で入ってこられた講師です。

お辞めになった方にはその人なりの理由があるのですから、
私がとやかく言うことは何もありません。

しかし、1つだけ言えることがあります。

それは、教職は誰にでも務まる職業ではない
ということです。

少なくとも、その辺のおじさんやおばさんを連れてきても、
絶対に通用するはずがないのです。

単に「子どもが好き」とか、「教員への憧れ」だけで
何とかなる職業ではありません。

かつては、世の中全体に「教職は聖職」といった考え方が残っており、
無条件に教師が尊敬をもって接してもらえていました。

しかし、現在はモンスターペアレントに学級崩壊など、
教師に対する世間の風当たりはとても強くなって
きているのです。

現在の教育現場において、それなりに教育実践を
行おうと思ったら、
「授業力」「生徒指導力」「人間力」の3つが
備わっていなければ難しいと言わざるを得ません。

前述した、異業種を定年退職されて教職にチャレンジされた方ですが、
「その志やよし」と感服いたします。

けれども哀しいかな、「授業力」も「生徒指導力」も
欠けている状態では、まったく通用しないのです。

たとえば、草野球のピッチャーが、
NPBの1軍のマウンドに上がって実戦を経験したとします。

結果はどうなるでしょうか。

まず間違いなく、1イニングと持たないでしょう。

滅多打ちにされて、コールド負けを喫するのは
想像に難くありません。

力の差というのは、それくらいに残酷なのです。

大変な学校の教壇に立つというのは、
NPBの1軍のマウンドに立つのと同じくらい
困難なことです。

流れを考えながら配球を組み立て、
直球でズバッと押さえたり、変化球で緩急を付けたりしながら、
試合を作らないといけないのです。

その異業種を定年退職された方は、
荒れかけたクラスの授業では10分と持たずに炎上し、
救援を求めて職員室に降りてこられていました。

野球と違うのは、炎上したからといって
リリーフピッチャーを送ることができないところです。

あるクラスにおける社会科の教師は、
その方1人だけです。

その方が授業を回せないからといって、
他の教師が代打で授業するわけにはいかないのが、
教職の辛いところなのです。

教育現場に対応するために何ができるか

まずは、何をおいても「授業力」「生徒指導力」
「人間力」を磨き続けることです。

たまに、「授業力」だけを磨く先生がいらっしゃいますが
、これだけだとどこかで頭打ちになります。

なぜなら、「授業力」と「生徒指導力」は
車の両輪のように、補完し合う関係にあるので、
片一方だけをレベルアップすることは
理論上不可能だからです。

授業が上手で分かりやすいからこそ、
生徒指導の場面でも生徒は教師の言うことを
聞こうとするのです。

逆に、生徒指導力があるからこそ、
授業の場面においても整然と指示に従い学習を
進めていくのです。

だから、この2つについては教職に留まり続ける限り、
ずっと磨き続ける必要があるのです。

ベテランの先生方の中には、「過去の経験」を頼りに
指導される方がいらっしゃいますが、
いずれ時代に取り残されてしまいます。

特に年配の教師ほど若い教師に頭を下げて、
自分が知らないことを教えてもらう謙虚さも大事です。

「俺はベテランだ」とふんぞり返っていても
教師をやっていけた時代は、とうに終わりを告げているのです。

では「人間力」とは何でしょうか。

私は若い頃、「人間力」という言葉が大嫌いでした。

教師としての力量もたいしたことのない人たちが、
「人間力」とか「人間性」といった言葉を連呼するのを、
どこか冷ややかな目で見つめていました。

しかし、自分もベテランと呼ばれる年齢に達し、
今一度自分の胸に「人間力」という言葉を問いかけてみると、
その重要性がハッキリと理解できます。

たとえば、同じように勉強会に行って、
教科指導の在り方や生徒指導についての知識を学んでも、
人によって実践に大きく差が付いてしまうのはなぜでしょうか。

私はそれこそが「人間力」の差だと思うのです。

「授業力」のある教師は、授業におけるパフォーマンスで
その力量を測ることができます。

「生徒指導力」のある教師は、生徒指導におけるパフォーマンスで
その力量を測ることができます。

でも、「人間力」は目で見て確認することができません。

しかし、私たちは「人間力」のある教師や生徒が誰なのか、
それぞれに見抜いているものです。

では、私たちはいったいどうやって目で見えない「人間力」を、
見抜いているのでしょうか。

その答えは「心眼」の力にある、と私は考えています。

肉眼で見るのではありません。

心の目で観ることによって、
私たちは各人の内面的な価値を推し量っているのだと
思います。

若い頃は、全く理解できなかった「人間力」こそが、
教職困難時代を生き抜くための大きなヒントになるのでは
と考えています。

「人間力」を高めていくには

私たち教師にとって、「人間力」を高めることが
最重要ファクターであることについて前述しました。

では、その形なきものをいかにすれば高めることが
できるのでしょうか。

これには、ハッキリ言って明確な答えはありません。

ある人にとっては、目の前の子ども達を高めるために
行っている試行錯誤が、そのまま「人間力」を高める
修行になっているかもしれません。

またある人にとっては、子育てをしながら、
学担として30人の子ども達と対峙することが、
「人間力」の修行になることもあるでしょう。

その意味では、どのようなことも「人間力」を
磨くための砥石と成り得るし、
それゆえにこそ曖昧模糊として何をして良いか分からず
道に迷う可能性も高いのだと言えます。

だから、ここでは「人間力」を磨くために
外してはいけない要件をいくつか述べることで、
ご参考に供したいと考えております。

1つ目は、1つ上の基準にチャレンジし続けることです。

仕事の「質」や「量」の面で、ほんのちょっとでもいいので
1ランク上を目指してチャレンジし続ける人は、
傍から見ていてもとても魅力的です。

少しでも自分を成長させようと努力し続けることで、
「人間力」は磨かれていくのだと思います。

2つ目は、きちんと筋を通すことです。

「卑怯なことをしない」と言い換えてもいいでしょう。

折に触れて「自分さえよければいい」という考えに陥っていないか、
自分を見つめることが大事です。

3つ目は、自分との約束を守ることです。

他人との約束を守るのは、普通の社会人であれば
誰でもすることです。

ところが、自分との約束となると、
途端にいい加減に考える人が急増します。

でも、自分との約束こそ何をおいても
守ってほしいのです。

自分との約束を破ると、人はだんだん自分のことが
信じられなくなります。

つまり、「自信」を失っていくのです。

自分のことを根底で信じられない人が、
誰かに信用されることなどあるわけがありません。

自分が自分を扱うように、他人から扱われて
しまうのですから。

逆に、自分との約束を愚直に守り続ける人は、
少しずつ自分への信用貯金を貯めていきます。

それが確固たる自分への信頼へと変わり、
揺るがぬ「自信」として結実するのです。

自分のことを根底から信じられる人は、
周りから見ても「信用のできる人」として
映っているはずです。

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