自責思考で生きる

メンタル

起きたことは人のせい?

先日、学年の先生から
「授業中生徒が言うことを聞かなくて困っている」
という訴えがあり、教室に駆けつけたところ、
騒然としていて惨憺たる有様でした。

その時、現場に向かったのは私と若手の男の先生の2人でしたが、
しばらく授業の様子を廊下で見ながら、
子供達に静かにするよう合図を送ったりしていたのですが、
一向に納まる気配がありません。

そこで教室の中に入って、
生徒たちの側について様子を見守ることにしました。

ほとんどの生徒は落ち着きを取り戻したのですが、
それでも静かにならないヤンチャ君たち。

すると、教科担の先生が私たちに向けてこう言いました。

「授業を進めたいのに、全然静かになりません。
どうしたらいいですか?」

どうやら、私と若手の先生でヤンチャたちを摘み出してほしい
ということのようです。

私は、学年の先生をサポートすることについては
やぶさかではないのですが、
不必要に手を出しすぎるのはお互いのために
よくないと考えています。

自分でできるところまで努力していただき、
それでもどうにもならない時に相談されるのは
構わないのですが、
自分の授業を改善しようとする明確な意思を持たず、
授業妨害する生徒を邪魔者と決めつける
その怠慢な姿勢に腹が立ったのです。

おまけに、その教科担の先生は私たち2名にこう言いました。

「正直、こんなふうに私の授業がうまくいかなくなるのは
学年としての在り方に問題があると思うんですよね。
先生たちに生徒指導を押し付けてしまっている私たちにも
問題はあると思うんですけど、子どもたちが先生たちの
言うことしか聞かなくなってしまっていることは
学年の責任があると思います。」

私は心の中で
「そういう思考をしているから授業もうまくいかなくなるし、
生徒も言うことを聞かなくなるんだよ」
と思いながら、その言葉を聞き流しました。

この世は他責思考の人だらけ

個人攻撃をするために、私はこの記事を書いている
のではありません。

よくよく思い返してみれば、
「世の中の大半の人たちってこんな考え方だよな」
と再認識させられたのです。

私の父も、若いころ自分の体調不良を
母の食事管理のせいにしていました。

父の愚痴をを聞きながら、
見苦しいなと子供心に思っていたものです。

それどころか、私自身もこれまでの人生で
よく親や他人のせいにしてきました。

でも、そういう考え方をしている限り、
自己実現など夢のまた夢なんですよね。

私もそんな自分が嫌で、
何度も自分の姿勢を改めようとしては
挫折することを繰り返してきました。

そんな私に転機が訪れたのは、
とある年の学年スタッフが次々と退職する事態に
見舞われた時のことです。

正直、目の前が真っ暗になりました。

「これから1年間、学年を維持することが
できるのだろうか」
と。

5学級180名を抱える大所帯で、
生徒指導の戦力になるのは私と若手の2名だけ。

管理職は、「学年で何とかしろ」と丸投げ状態。

できることならすべてを投げ出して、
ここから逃げ出したいと
私も何度か夢想しました。

でも、そうなったらこの子らはどうなる?
学年のスタッフは?
私たちに大切な子供を預けてくださっている
保護者は?

そのとき私を職場につなぎ止めていたのは、
職務に対する使命感だけだったかもしれません。

毎日ギリギリのところで踏ん張りながら、
出勤する日々が続いていました。

そして、生徒指導、学年業務、人間関係、
といった諸問題が重層的にのしかかったある日、
心がポッキリ折れてしまい、
学校に一步も足が進まなくなってしまったのです。

学年の先生方には申し訳ないと思いつつも、
その日はお休みをいただくことにしました。

布団の中にくるまりながら、
いろんなことに思いを巡らせていると、
悔し涙が次々と溢れてきて頬を濡らします。

と同時に、
「もしこのままずっと学校に行けなくなったらどうしよう」
という恐怖が胸を締め付けます。

結局、その日しっかり休んだことが功を奏したのか、
翌日以降、私が学校を休むことはありませんでした。

逆境の中に光を見出す

では、なぜ私はどん底の状態から不死鳥の如く
蘇ることができたのでしょうか。

それは、目の前の理不尽や不都合に文句を言うのをやめて、
全てを自分を磨くための砥石であるとの認知を書き換える
ことができたからです。

例えば嫌な人が目の前に現れたら、
「この人は感情のコントロールの練習台だ」と楽しんだり、
きつい状況になったら「中心軸をぶらさない練習」とか、
「ハラを練る機会」というふうに前向きに捉えながら過ごすことで、
気持ちの安定を図ることを心がけました。

もう一つは、理不尽や不都合に対しては、
いい人ぶって我慢をせずに
きちっと自分の意思を伝えると決めたことです。

学年の職員だけでなく、時には校長に対しても
ズバッと物申してきました。

「もう我慢はしない」と決めたことが、
精神的にもプラスに作用したようです。

私はこれまで自分のことを
「結構図太いのでメンタルダウンになることはない」
とたかを括っていました。

でも、今回精神崩壊の危機に直面し、
「現状の器の大きさのままではもうやっていけない」
と確信したのです。

自分を変えるか、このまま潰れるかという
究極の二者選択を人生に迫られ、
自分の「器を広げる」ことに
活路を見出すしかなかった、
というのが本音のところです。

絶望が足りないと人は変われない

蹴局のところ、人は自分に甘いものです。

自責が大事と頭でわかっていても、
他責思考から抜け出すことができないのは、
その必要性を感じていないからに他なりません。

要は、甘ちゃんのままでも生きていけるから、
そのままズルズルと他責思考で生きていって
しまうのです。

本気で自責で生きて行こうと思うなら、
もっともっと人生にチャレンジして、
ボロボロに傷つきながらどん底の中でもがき苦しむ
体験が必須だと思います。

ぬるま湯の中で、ダラダラやっている限り、
他人のせいにする生き方からは永遠に脱却できない
のではないでしょうか。

そして、現状の煮え切らない人生が、
死ぬまでずっと繰り返されることになるのです。

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